世界を動かした超天才エンジニア
今回は、いつもと少しテイストを変えて、世界を変えた異次元の超天才プログラマーたちを3人紹介していきます^^
基本的に、自分は天才マニアなので、世界の天才たちを深掘りするのは大好物です。
そのため、いつも発信しているプログラミングと天才を掛け合わせて、天才プログラマーを紹介したいなとふと思い浮かびました。
今回紹介する天才プログラマーたちは、もちろん全員が超有名人で、世界を動かした巨人ばかりです。
ITに覆い尽くされた現代においては、今回紹介するプログラマーたちの貢献度は計り知れないものがあります。
今回は、超天才プログラマー3人の功績やエピソードなどを紹介していきます。
スティーブ・ウォズニアック
世界を変えた天才エンジニアの1人目は、スティーブ・ウォズニアックです。
世間ではAppleといえば、故スティーブジョブズのイメージが強いですが、エンジニアの皆さんであればご存知、スティーブウォズニアックもAppleを語る上で欠かせない存在です。
スティーブ・ウォズニアックはカリフォルニア州サンノゼの生まれで、父はロッキード社のエンジニアでした。
アマチュア無線の免許を6歳の時に取得、わずか13歳の時にトランジスタを組み合わせて原始的なコンピュータを作り、科学コンクールに優勝した、まさに天才です。
一説によると、ウォズニアックは小学生の時点でIQが200あったそうです。
ウォズニアックは、世界初のパーソナルコンピュータであるApple Iと、キーボードやメモリ、CPU、画像出力装置、外部記憶装置、音声出力装置とのインターフェース、プログラム言語などのオールインワンパッケージ化を可能にした最初のコンピュータであるApple IIの開発を1人で成し遂げました。
ウォズニアックは学生時代に、ジョブズと二人で不正に無料電話をかけることの出来るブルーボックスを発明したりしています。
ウォズニアックとスティーブ・ジョブスは、このブルーボックスを使って、大統領補佐官だったヘンリー・キッシンジャーのふりをして、ローマ教皇にイタズラ電話をしたそうです。
とあるインタビュー記事で本人が答えていますが、ウォズの第一の目標は一生エンジニアとして働くことだそうです。
そのため、昇進はしないし、アップルの創業者であるにも関わらず、管理職になったことは愚か、部下を持ったこともありません。
組織的な立場としては最下部にとどまり続け、あくまでもエンジニアとして好きなことを続けているのです。
誰もが地位や名誉を求める中、エンジニア一筋で生きてきたウォズは自分の人生は幸せだと言っています。
ここからもわかるようにウォズは、経営には全く興味を示さず、名誉も富も求めずにエンジニアに徹してきました。
ヒューレット・パッカードから、報酬を5倍にするからとヘッドハンティングされた時も、自分のやりたいことが出来そうにないという理由で断りました。
あくまでも彼の中で重要なのはエンジニアとして自分のやりたいことが出来るかどうか、ということだということがよくわかりますね。
そんなスティーブ・ウォズニアックは、1971年のヒューレット・パッカードでの夏季インターンシップで、スティーブジョブズとの出会いました。
ウォズニアックは、あるときジョブズに頼まれてブロックゲームの改良を手がけました。
ジョブズからの要望で、ウォズは徹夜をして、たった4日間でそれを完成させました。
すると、ジョブズはそれを『二人で作った』と周りには話し、多額の報酬を手に入れたそうです。
普通ならば腹を立ててもおかしくない状況に、ウォズは全く怒りもせず、「ゲームを作って子どもたちが喜んでくれたらそれでいい。そのために自分は頑張ったんだ」と彼は話します。
このエピソードからウォズニアックが、温厚で優しい性格であるかがわかります。
さらに、人生で成し遂げたい事を聞かれたウォズは『テトリスで7万5000点を出すこと』と答えるなど、おちゃめな一面も伺えます。
コンピュータを発明した偉大なエンジニアは、どこまでも謙虚で温厚な人格者なのです。
ウォズニアックには、いたずら好きな面もあり、中高生時代に学校のロッカーに偽の時限爆弾を仕掛けるなどの面白いエピソードがたくさんあるので、また調べてみてください^^
ビル・ゲイツ
世界を変えた天才エンジニアの2人目は、ビル・ゲイツです。
マイクロソフト・コーポレーションの主要共同設立者、およびWindowsを開発した人物としてよく知られています。
1975年、ゲイツとポール・アレンはマイクロソフトを設立し、世界で最も大きなPCソフトウェア会社となります。
ゲイツは2001年1月に辞任するまでCEOとして会社を引率していましたが、同時に会長職やチーフ・ソフトウェア設計者を歴任していた。
現在、一家に一台は当たり前のパソコンは、昔は「マイナーでオタクなシロモノ」でした。
そんなパソコンが、一般家庭に爆発的に普及することになったのは「Windows95」の発売があったからです。
今世紀最大の発明である「インターネット」が一般家庭に普及したのは、Windowsに含まれていた「Internet Explorer」おかげでもあり、ビル・ゲイツの功績は計り知れません。
そんなビル・ゲイツは1955年10月28日ワシントン州シアトルで、父ウィリアム・ヘンリー・ゲイツ2世(1925年生まれ)と母メアリー・マクスウェル・ゲイツの間に生まれた。
ゲイツの父親は有名な弁護士で、母は銀行持株会社ファースト・インターステート・バンクシステムや非営利団体ユナイテッド・ウェイ・オブ・アメリカの取締役会員でした。
とにかくスーパーエリート一家に生まれたということですね。
中学時代
1967年、ゲイツは、シアトルのレイクサイド中学に入学します。
当時、同校はゼネラル・エレクトリック社の GE-635に接続されたテレタイプ端末を導入していました。
ゲイツが13歳の時、彼はふと数学の授業で使われているコンピューター室をふと覗きました。
教師の操作するテレタイプ端末に、電話線の向こうのマシンが反応を返す様子をみて、ビルゲイツは、何の予備知識もなかったのに即座に興味を抱いたと言います。
以来、ゲイツは学校のコンピューター室に入りびたり、マニュアルを読みふけっては、BASICを使ってゲームのプログラムを書いていたそうです。
高校時代
高校に上がると、ワシントン州立大学の学生だったポール・アレンとともに、交通量計測システムの作成を手がけるようになります。
ちなみにポール・アレンは、後のMicrosoftの共同創業者となる人物です。
このビジネスは、ゲイツが大学生になっても続けたようですが、最終的には大きな利益をあげることはできなかったそうです。
大学時代
高校卒業後、ビル・ゲイツは、アメリカの超名門ハーバード大学に入学します。
大学入学後、アレンとともに、今度はBASICインタプリタの開発に着手します。
8週間もの間、二人は寝食を忘れて取り組み、ついに二人の作ったBASICインタプリタは「Altair BASIC」として販売されます。
このBASICインタプリタ事業が開始された1975年4月をもって、事実上のMicrosoft社の創業だとする説が有力らしいです。
ちなみに、「Microsoft」という会社名は、1975年7月にアレンが考案したものであり、この時点ではまだ「Microsoft」という名称は使われていませんでした。
その後、IBMの要請でMicrosoft社は、パーソナルコンピュータ向けのオペレーティングシステムであるMS-DOSを開発しました。
そして1985年には、名称が Windows に変更され、Windows最初期バージョンが発売されます。
この時期、Macintoshはすでに GUI(Graphical User Interface)を搭載するパソコンを販売しており、Windowsは機能面で、Macintoshに大きく見劣りするものであったと言います。
Microsoftは、1995年のWindows 95に至って、ようやくMacintoshと肩を並べることになります。
ビルゲイツはかなりドケチ
有名な話として、ビル・ゲイツはかなりの守銭奴であることが知られています。
ビルゲイツほどの有名な大金持ちなら、飛行機はファーストクラスで華麗に移動するのかと思いきや、仕事での移動はいつもエコノミークラスを指定します。
ファーストクラスの航空券を手配した日本法人の社員に、怒鳴り散らしたこともあるらしいです。
「エコノミーでも到着する時間は同じだろ」というのが彼の考え方です。
ちなみに、出張先でスイートルームを用意された時も、「ベッドとインターネットがあれば十分だ」と怒り出したことがあったようです。
また、ビルゲイツには「割引クーポン券を集めるのが大好き」というチャーミングな一面もあります。
世界長者番付の常連でもある、大投資家ウォーレン・バフェットと、クーポン券を使ってマックで会食した話は有名です。
本当のお金持ちは、贅沢なんてしないんですよね。
徹底的な合理主義者で、お金の無駄遣いをしないものです。
マーク・ザッカーバーグ
世界を変えた天才エンジニアの3人目は、マーク・ザッカーバーグです。
ザッカーバーグは2004年にフェイスブックを創業し、2020年現在は会長・CEOを務めています。
フェイスブックは世界に約24億ものユーザーを抱える、世界最大規模のネットワーキングソーシャルサービスであり、ザッカーバーグはフォーブスの世界長者番付の常連であり、その保有資産額623億ドルにものぼります。
そんなザッカーバーグは1985年5月14日、アメリカ・ニューヨーク生まれ、両親ともに医者という裕福な家庭で育ちました。
父の教育方針は「周囲に流されるのではなく、自身が本当にやりたいことを全力でやらせる」というものだったので、みんなが持っているから欲しいとねだったバスケットボールは買ってもらえなかったと言います。
そんなザッカーバーグが幼少期に関心を示したのがプログラミングでした。
12歳の時に、父が彼らの住む街で1番初めにコンピュータを買い与え、コンピュータの家庭教師もザッカーバーグにつけましたが、ザッカーバーグがあっという間に習得してしまったため、教師は教えることがなくなってしまったそうです。
プログラミングを習得し終えたザッカーバーグが一番初めに開発したソフトは、歯科医の父親をサポートする為の受付業務システム「Zuck net」だ。
18歳になったザッカーバーグは、ユーザーの音楽の好みを元に、新たに曲を提案する「Synapse Media Player」の開発に成功します。
このソフトに対して、マイクロソフトから約1億円の買収金額を提示したそうです。
ザッカーバーグは高校卒業後、ハーバード大学に入学します。
ハーバード大学入学後は、大学生ならではのサービスをふたつ開発します。
ひとつは、どの学生がどの授業を履修しているかをリスト化した「CourseMatch」です。
そしてもう一つが、女子学生の容姿を格付けするサービス「Facemash.com」です。
このFacemashの話は有名なので、皆さんも知っているかと思います。
このFacemashは、案の定ですが、大学内で批判を呼んだ上、画像を無許可で使用していたことで大学からサイトを4時間でクローズされます。
しかし、ザッカーバーグは諦めませんでした。
情報のオープン性を主張し、ハーバード大学内にて学生と学生を繋ぐフェイスブックを19歳で開発しました。
このFacebookは、他大学や多く企業からも大きな反響がありました。
その後、フェイスブックの開発やサービス向上に注力するため、立ち上げ1年後にはハーバード大学を中退します。
このようにしてフェイスブックは世界中の人々をオープンに、そしてより近づくサービスとして発展していき、現在の地位を築いています。
マークザッカーバーグについては、『ソーシャルネットワーク』という映画を見れば、よくザッカーバーグのことやFacebookの創設秘話がわかると思います。
めちゃくちゃ面白い映画なのでぜひみてみてください。
自分は5周はしたと思います(笑)。
まとめ
ここまでで、世界を変えた超天才エンジニアを3人紹介しました。
今回は、スティーブ・ウォズニアック、ビルゲイツ、マークザッカーバーグの三人を紹介しましたが、世界を変えたエンジニアは他にもまだまだいます。
今回の内容が好評そうであれば、また別バージョンも作ってみたいと思います^^
今回の内容については以下の動画でも解説しているので、ぜひご覧ください^^
(追加していただいた方だけに配布する限定動画もございます🎁)