【京大出身の天才】くりこみ理論を築いた朝永振一郎博士を徹底解説!

大学 / 大学院
YUKO
朝永振一郎という名前は有名で知っているけど、具体的にどんな人でどんな実績を残した人なのかは全然知らない….。
YUJI
今日はそんなYUKOさんのために、朝永振一郎博士について徹底的に解説していきますね!
本記事が想定するターゲット読者
朝永振一郎博士の詳細を何も知らない人
本記事を読んで分かること
朝永振一郎博士の生い立ちや人物像、偉大な功績などがわかります

くりこみ理論を築いた朝永振一郎博士を徹底解説!

今回は、京大出身の天才で、日本で2番目にノーベル賞を受賞した、理論物理学者の朝永振一郎博士についてまとめていきます。

以前、湯川秀樹博士についてまとめたので、当然、朝永博士の存在は絶対に無視することができないということで、今回は朝永博士の生い立ちや偉大な功績について深掘りしていきます。

湯川秀樹博士は、福山雅治のドラマでもその名前が使われていたので、世間的に認知されているかもしれませんが、朝永博士については、理系じゃなければ、もしかしたら名前すら知らないという人もいるかもしれません。

ただ、朝永先生というのは、湯川博士と同じ時代に活躍していて、この二人は切っても切り離せない関係です。

後の説明にも出てきますが、湯川博士と朝永博士の二人は、とにかく共通点が多いです。

父親は京大の教授であること、同じ中学、高校、大学に通ったこと、京大では同じ研究室にいたことなどなどです。

だからこそ、湯川博士を語るなら必ず朝永博士が出てくるし、朝永博士を語るなら湯川博士が必ず出てきます。

前回は湯川博士を中心に話してきましたが、今回は朝永博士を中心にどのような人生を歩んで、どんな偉大な功績を残したのかをまとめていきます^^

幼少期〜大学卒業まで

朝永博士は1906年、東京で生まれました。

4人兄弟の2番目で姉と弟、妹がいました。

哲学者だった父親の朝永三十郎(さんじゅうろう)が京都大学の教授となったので、博士は一家で京都に移り住むことになり、錦林小学校に転校します。

父親が京大の教授になるから京都に引っ越しをするというのは、湯川秀樹博士と全く同じパターンですね。

朝永博士の父親である、朝永三十郎さんは、後に京都学派の哲学者の一員として知られるようになります。

朝永博士は小さいときから体が弱く、学校も休みがちで両親をとても心配させました。

朝永博士自身、子供のころを振り返り「気が弱く泣き虫でよくメソメソと泣いていた」と語っています。

朝永博士は父親の影響で哲学の道に行くかと思いきや、小さい頃から科学に興味を持っており、虫眼鏡で実験を行ったり、電信機や顕微鏡のレンズを自作するなどしていました。

著名な哲学者の息子ではありましたが、朝永博士は「哲学というものは私にとってはなはだ苦手で、どうしても歯がたたない」と語っています。

朝永博士は、現在の京都府立洛北高等学校附属中学校である京都一中、第三高等学校、そして京都帝国大学理学部物理学科を卒業をしています。

学生時代は女浄瑠璃や寄席に入り浸って、かなりの趣味人だったと言われています。

大学卒業後は、京都帝国大学の無給副手に着任することになります。

湯川秀樹博士とは中学校、高等学校、帝国大学とも同期入学・同期卒業であり、就職もやはり湯川秀樹と同期で、机も同じ部屋だったらしいです。

この朝永博士と湯川博士は、本当に良き友人で、良きライバルという感じですよね。

湯川博士、朝永博士は、どちらも父親が京大の教授であり、厳格な家庭に育ちました。

そして、京都一中、京都三高、京都大学とまったく同じコースを歩き、同じ年に卒業して、京大の玉城教授の研究室で量子力学の研究に没頭しています。

湯川博士は朝永よりも一年後輩なのですが、湯川博士が中学の時に一年飛び級して高校へ入学したため、高校と大学では同学年となりました。

この二人の天才は、玉城研究室で勉強するときには、同じ部屋で机を並べて研究していたのですが、朝永博士はそのころを振り返って「湯川君は考え出すとぶつぶつ独り言をいってうるさいので、僕は図書館に逃げることにしていたよ」と語っています。

二人の天才のエピソードは、どんな些細なことでも、聞いているだけで興味深いですよね(笑)。

京都帝国大学卒業からくりこみ理論の提唱まで

朝永先生と湯川先生の2人が量子力学へ進むきっかけになったのは、中学時代に来日したアインシュタインの影響が大きいと言われています。

また、1927年に京大の学生時代に来日した2人の若き天才ハイゼンベルグ(1932年ノーベル物理学賞受賞)とディラック(1933年ノーベル物理学賞受賞)の講演を聴いたことも大きかったようです。

2人が来日したとき、ハイゼンベルグ26歳、ディラック25歳でしたが、この若さで2人とも後にノーベル賞受賞の対象となる業績を出していました。

この2人は、すでに20代でヨーロッパの研究所で招待講演をしており、来日したときもアメリカ大陸での講演旅行の帰りがけでした。

多くのノーベル賞受賞者は、20代に基礎的な業績をあげているものです。

今の自分と同い年くらいだと考えると震えますね(笑)。

ハイゼンベルグとディラックという2人の若き天才の講演を聴いて、湯川博士と朝永博士は大いに刺激され、本格的に量子力学に興味を没頭していくことになります。

それから間もなく2人は京大を卒業して、湯川博士は大阪大学へ、朝永博士は理化学研究所へと分かれていきます。

朝永博士は理化学研究所の仁科研究室に入り、そこで学位を取得しています。

その後、朝永博士は1937年に日独交換留学生としてドイツに留学し、若き日に京都で講演を聴いて影響を受けたライプツィッヒ大学にいたハイゼンベルグに師事し、原子核理論の研究に没頭しました。

1941年12月には太平洋戦争が勃発し、アメリカ、イギリスからの文献は一切こなくなってしまいましたが、大阪の湯川博士と東京の朝永博士は、お互いに共同歩調をとりながら研究を続行したそうです。

朝永博士はその頃、「場の量子論」が相対性理論との関係が必ずしもはっきりしない欠点があることに取り組み、空間の各点はそれぞれ固有の時間をもつと考える「超多時間理論」によってこの欠点を説明しました。

電子・電磁場系に対する場の理論は、物理量を計算するとすべて無限大になるという矛盾を持っていました。

しかし、超多時間理論を適用すると、無限大の各項は電子の質量や電荷への補正と考えればよいことに気がつき、無限大を電子の質量や電荷にくりこんでしまえばすべての物理量は有限となり、理論と実験はほぼ一致するとの結論にたどり着いたのです。

理論が難解すぎて、自分もうまく理解できていませんが、とにかくすごい理論を提唱したということで大丈夫です(笑)。

朝永が1947年に発表した「くりこみ理論」は、世界の理論物理学界にも衝撃を与え、朝永の名前は広く知られるようになります。

そして1965年についに、朝永博士は「量子電磁力学の分野における基礎的研究」によって、日本人として2人目のノーベル物理学賞を受賞しました。

これは、湯川博士の受賞から16年ぶりの快挙でした。

最後に

ここまでで、日本で初めてノーベル賞を受賞した朝永振一郎博士の幼少期からノーベル賞を受賞するまでの軌跡についてまとめてきました。

朝永と湯川は同時代に生きた理論物理学の「二人の巨人」である。朝永は計算術に優れていて、理論の細かいことまで熟知していました。

文献をよく読み、物性論のような専門外のことでも優れた業績を残しています。

講義も懇切丁寧であり、理論の説明でも歴史に遡って詳しく話をし、どれだけ講義の時間が長くても、学生は聴いていて飽きなかったようです。

朝永博士は、人柄は飾らない庶民派であり、落語を愛し、教授となってから東京大学の学園祭(五月祭)に出かけて、得意のドイツ語で落語を演じるなどして、大いに民衆を笑わせていたという記録が残っています。

朝永博士は顔もイケメンだし、人柄も良さそうで、まさに初代パーフェクトヒューマンという感じですよね(笑)。

次回からは、物理学だけでなく、京大が輩出した数学界の天才についてもまとめていこうと思います。

YUKO
今回で湯川先生のことについてかなり詳しくなった気がします!また他の人の紹介も見てみたいな!
YUJI
湯川先生は特に理系の人なら一般教養レベルなので、是非とも知っておいて欲しいですね^^次回以降、他の天才たちもまた紹介していきますね!
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