日本で初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹博士を徹底解説!
今回は、京大出身の天才で、日本で初めてノーベル賞を受賞した、湯川秀樹博士についてまとめていきます。
湯川秀樹という名前は、あまりにも有名すぎるので、大人だったらこの名前を知らない人はいないんじゃないかなぁと思います。
ただ、名前は知っていてもどんな幼少期を過ごして、どんな青年になって、具体的にどんな実績を残したのかということまでは知らないと思うので、今回はその辺の細かいところまで深ぼっていきたいと思います。
かくいう自分も、名前とどんな功績を残してノーベル賞を受賞したのかくらいしか知らなかったので、この動画を撮るために調べる過程で、かなり勉強になりました。
今回の内容が好評であれば、他に朝永振一郎博士などのノーベル賞受賞者や、広中平祐博士などのフィールズ賞受賞者についてもまとめようと思います。
幼少期
湯川博士は1907年、東京の麻布に小川秀樹として生まれました。
上には姉が二人、兄が二人いて、父方の祖母と母方の祖父母も同居していたので、サザエさんを彷彿とさせるようなかなりの大家族でした。
後々、湯川博士の弟が二人生まれるので、最終的には7人兄弟になります。
父親の小川琢治(たくじ)は農商務省地質調査所に勤務する地理学者でした。
ここで「小川」という苗字が出てきましたが、湯川先生は、結婚するまでは実は苗字は「小川」だったのです。
「湯川」というのは、湯川博士の奥さんの姓で、博士は結婚後に湯川姓を名乗るようになります。
そんな湯川先生は1歳のときに、一家全員で京都に移住します。
湯川博士の父親の琢治が、京都大学に新しく作られた地理学講座の教授に就任したからです。
父親の琢治は多趣味な人で、何かに興味をもつと、それに関する本を集めるくせがありました。
そのため、湯川博士の家は図書館のように本だらけでした。
家族はみな勉強好きで、祖父は漢学と英語、母親も英語が得意でした。
そのおかげで、子どもである湯川博士はじめ他の兄弟姉妹も全員、幼いころから本を読むのが当たり前になりました。
後に、湯川博士の二人の兄は冶金(やきん)学者と東洋史学者に、そして弟は中国文学の学者になっています。
このように常に、兄弟たちは本に囲まれて自然と勉強していたので、両親に勉強を強いられたことは一度もなかったそうです。
そんな中、父親の琢治はいつも子どもたちにこう言い聞かせました。
「学校の成績のために勉強するなんて、おろかなことだ。自分が好きな学問を深く学びなさい」と。
そのような環境で育った湯川博士は、どんどん自主的に勉強や読書に励む子どもに成長していきました。
やはり、偉大な功績を残す人というのは、幼い頃から自然と勉強に励む環境がある人が多いですよね。
湯川博士は、大量に読書しているうちに、少しずつ物理学に興味をもつようになっていきました。
ある時「物質はいったいどこまで小さくすることができるのか」という問題について、すぐ上の兄と大論争をかわしたことがあるそうです。
兄は「分子という単位が一番小さいんだよ。それ以上小さく分けることはできない」といいましたが、湯川博士は「どんな物質でも、もっと小さい単位に分けることができるはずだ」と主張しました。
この時は、年の差には勝てずに、湯川博士は兄に言い負かされてしまいますが、その直後に分子よりも小さな「原子」、さらに原子を構成する「原子核」と「電子」が発見されました。
幼い頃から湯川先生はすでに「物理学のセンス」があったというわけですね。
朝永振一郎博士との出会い
京都府立京都第一中学校に入学した頃、湯川博士は、のちに日本で二人目のノーベル賞受賞者になる一つ年上の朝永振一郎博士と出会います。
当時の中学は五年制で、四年修了者から高等学校の受験資格がありました。
算数、数学がよくできた湯川博士は四年修了で、英語を第一外国語とする第三高等学校理科甲に入学しました。
一方で、大きな病気を繰り返していた朝永は五年卒業で、ドイツ語を第一外国語とする第三高等学校理科乙に入学し、ここで湯川博士と朝永博士は同学年になったのです。
高校三年生になったとき、湯川博士のクラスの力学を朝永が履修し、二人は始めて同じ教室で学ぶことになります。
ただ、湯川は物静かで目立たない性格で、朝永博士の方はというと病気がちだったので、まだ二人につながりは生じません。
湯川博士は大学受験前の志望調査に、最初は父の専門であった地質学と書いていましたが、学校の図書館や洋書輸入書店で書籍を読みふけっているうちに、物理学が大きな発展の息吹の中にあることを知り、志望を地理学から物理学に変更しました。
湯川博士と朝永博士の高校卒業は1926年3月でした。
京都帝国大学理学部物理学科の学生になった二人は、三年生になるときに研究テーマとして量子論を専攻したいと思いました。
しかし当時、量子論の研究室はなかったので、理論物理学研究室として、流体力学を研究していた玉城嘉十郎教授が、かつて相対性理論を研究したことがあったので「指導はできない」という条件付きで二人を受け入れました。
湯川博士と朝永博士は、卒業後も玉城研究室の副手となって大学に残りました。
当時の大学には、教授・助教授・助手の下に、無給の副手というポストがあったのです。
3年後の1932年に、湯川博士は京都帝国大学の専任の講師となり、朝永は東京の理化学研究所の仁科研究室の研究生となりました。
その後、この二人は生涯にわたり、親しい友人であり、厳しいライバルであり続けました。
京都帝国大学の卒業から中間子の発見まで
湯川先生は皆さんご存知の通り、今の京都大学の前身にあたる京都帝国大学を卒業しています。
湯川先生が大学を卒業した当時は、ちょうど世界で「素粒子物理学」という新しい学問が活発になり、原子核の構造などが急速に分かり始めた時代でした。
ちょうどこの頃に、英国のジェームズ・チャドウィックによる中性子の発見と、ドイツのヴェルナー・ハイゼンベルクの原子核が陽子と中性子からできているという理論が発表されたのでした。
この頃から湯川先生は、この陽子と中性子が原子核の中でバラバラにならずに結びついている理由を説明する理論を作り出すことを目指します。
しかし、当時の日本にこの分野の専門家はほとんどいなかったため、海外の論文などを手がかりに研究を続けました。
そして1934年に、湯川先生は「原子核が陽子と中性子からできているためには、それまで知られていない力が働いていなければならず、その力に関係して電子の200倍程度の質量を持つ未知の粒子が存在しなければならない」という理論を提唱しました。
つまり、この理論で湯川先生は、陽子と中性子を強い力で結びつけている「中間子」という新たな粒子が存在するはずだと予測したのです。
これが後のノーベル賞につながる「中間子論」です。
この中間子論が、湯川博士が27歳で人生で初めて書いた論文でした。
27歳というと、今の自分と同じ年なので、いかに湯川先生が偉大であるかが身に沁みて分かります。。
この中間子論の論文はまず国内で発表されて、その翌年には日本数学物理学会の欧文誌にも掲載されましたが、当初、国際的には全く注目されませんでした。
しかし、昭和14年、つまり「中間子論」の発表から5年後が経過すると、当初は見向きもされなかった論文でしたが、徐々に注目を集めるようになり、湯川博士は物理学の中心地であるヨーロッパで開かれる国際学会に招待され、生まれて初めて海外に渡りました。
以下の家族写真は、その渡航の直前に撮影されたものです。
渡航前の湯川先生の表情は少しお堅く、初めての渡航に対しての緊張感が伝わってきますね。
そして次の写真が、帰国後の写真です。
渡航してからおよそ半年後に撮影された帰国直後の写真では、家族とともに非常に穏やかな顔をしています。
充実した海外渡航だったことがよくわかる写真ですね。
湯川先生は海外に渡航したものの、実は招待された国際会議は、第2次世界大戦の開戦によって直前で中止されてしまったのです。
しかし、すでにヨーロッパにいた湯川先生は、そのままアメリカへ渡り、アインシュタインなどの第一線の物理学者と次々に面会して「中間子論」や最新の物理学の理論について議論を交わしてきました。
その中で湯川博士は「中間子論」に自信を深めたらしいです。
実際に海外で湯川博士の評価はこの時期以降、さらに高まっていき、イギリスのパウエル博士が宇宙線の中に実際に「中間子」の存在を発見したことで、湯川博士はノーベル物理学賞を受賞するに至りました。
湯川先生がノーベル賞を受賞したのは1949年なので、一番初めに中間子論の論文を提出してから実に15年の時間が経過していることになります。
湯川先生がなぜ物理学の中心だったヨーロッパから遠く離れた日本にいながら、ノーベル賞を受賞する研究を成し遂げることができたのかと思いますか?
このことは、昔から大きなテーマとして長く関心を集めていて、40年ほど前に素粒子物理学の歴史を研究する日米共同のグループが議論を行っているくらいです。
現在の結論としては、「世界最先端のヨーロッパには、大きな業績をあげた偉い先生がたくさんいて、彼らの考えていたことは弟子に伝わるため自由な発想が生まれにくかったのですが、湯川博士は日本で事実上、独学で道を切り開いてきたことで、既成の観念にとらわれすぎなかったから」となっています。
物理の伝統に縛られ過ぎず自由な発想と本質を見通す力を持っていたからこそ、大きな仕事を成し遂げられたわけですね。
最後に
ここまでで、日本で初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹先生の幼少期からノーベル賞を受賞するまでの軌跡についてまとめてきました。
これまで湯川先生のことをなんとなくしか知らなかった人も、本記事を読んで少しは詳しくなったと思います。
湯川先生は、現代物理学の父と呼ばれる偉大な科学者なので、基本的なことだけでも知っておきたいですね。
特に理系の人間なら知っていて当然の話です。
かくいう自分もこの記事を書くまでは、全然詳しくなかったですけどね(笑)。
冒頭でも書いた通り、京大は湯川先生以外にも、偉大な科学者を多数輩出しているので、また他の天才たちもまとめていきたいと思います^^
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